昭和57年6月7日 朝の御理解
御理解第4節
此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。
(?)も、分からないこと、んー、聞いてもそれが、信じられないこと。信心の世界には、やっぱりそういう、まっ不思議な世界なのですけれども、それがわからなければねえ、それを実感しなければ、やはりおかげにならん。
昨日は、ご本部の藤井家の、まあ藤井清秀先生が、お礼参拝なりました。えー、藤井くら様というのが、金光、教祖金光大神様の、まあ娘、お嬢さんであります。古川家の藤井、えー、古川、あー、の、おー、んー、末為神様とは、ご姉妹になるわけです。その、あの、藤井家の、大きな、藤井くら様のお写真が、ここで拝んでくれというて、持って見えられておりますから、私の、ご大祭の時に、私の控えだけにしか使いません部屋に、お祭りをさせて頂いております。
それで、あちらを、こう、見学される方は、この方はどの方のお写真ですか、これは藤井くら様、どうしてここにお祭りしてありますかと言って、皆がやっぱり質問するらしいんです。昨日は、その話が出たのでございますけれども。こうして、不思議なご縁で、まあ、教祖の神様の、お嬢様である、ご神格も頂かれた、えー、末為神様とか、藤井くら様、何とか言ったかね、ご神格は(正才神)あっ正才神様ですね、正才神様が、ここへ、以来私は、この藤井家と古川家の御霊たちを拝ま、昨日、まあ、このことを皆に言うても分からんから、誰にも話したこともないけれども、今、その正神様と、末為神様が、合楽教会のために一生懸命、霊的な働きをなさっておられますよっという話を、したことでございますけれども、さっそんなことは、本当にあるかないかは、分からない人にとっては、分からないでしょう、ね。
私は、合楽の場合はね、そりゃもう疑うて聞かぬ者はしかたがないですけれども。ね、本当に、本当に御霊の思いはそうであろう、神様の願いはそこにあるのであろうと思われる、それを、言うならば、信じずにはおられん働きが、合楽にはいっぱいあっておることですね。
これは昨日、熊谷さん、んー、からお届けがあったんですけれども。昨日のこと、一昨日でしょう、ある婦人の方が、何かご本を売りに見えた。400円で買うてください。おばしゃまあーた、悩みはありなさらんですかっち、いやあ私はありません、もう、合楽の金光様にこうやってお参りさせて頂いて、もう、毎日毎日が有り難い有り難い毎日を過ごさせて頂いておると言うて、まあ話されたという。このご本を読むと悩みが解決します、解消いたします、どうか一つ買ってくださいということだったそうですけれども、とにかく喜びいっぱいで、というのでございますから、ね、まっご本を買うてくれとも無理は言わなかったけれども、熊谷さんの話を聞いて帰られたと。話を聞きよったら、その方は合楽の方げなもん、ここの。まあ、ああいう神様が足元におられても、縁がないという、仕方がないことですなと言うてまあ、そういうようなことを話したという話を聞かせてもらいましたが、ね、例えばさあ、そういう有り難い神様を、その足元に頂いておっても、縁がなからなければ、(?)はないでしょう。
ね、なら皆さんの場合はです、遠方から、まあ、言うなら、大げさに言うと、日本国中からお参る。最近は、四国(???)、四国から、香川とか愛媛あたりから、ご参拝が、毎日あるんです。変わった方のご参拝が。というように、わざわざ合楽合楽と言うて、合楽を求めて、合楽の信心を求めてお参りをしてみえる方達もある中に、足元におっても、そういう、それこそ熊谷さんじゃないけれども、毎日を、有り難い有り難い、もう80に近い、でしょうか、熊谷さんは。80、あ?(83歳)、83歳、ね、それで、お一人くらいで、不平不足がないてなんて、普通から言うたら嘘みたいでしょう。ところがそれが、真実そうなのだから。ね、教えに、言うならば、生かされておられる喜びというものをね、日々感じられる。どこ行っても、そのご本を売られる方が、悩みのないとこちゃおそらくないでしょうから、そんなら悩みを解消のために、この本を読んでください、本当にそのご本を読んで解消するような、というなら、そんなに見やすいことはないですけれども、ね。
本当に、不思議なご縁に結ばれる、ご縁がなからなければできることではない。合楽教会に教祖金光大神様、いわゆる今日の御理解の中に申します、教祖金光大神様が、ね、天地金乃神様からも恩人、氏子からもの恩人、私どもからも恩人と、なら教祖金光大神を恩人として頂けれるためには、言うならそれだけのおかげを受けなければね、恩人、金光様には一遍参ったことがあるけどもおかげ頂かじゃったといったような人たちには、もう、それでお終いなんです。
ね、けどその金光大神に、深い、不思議なご縁を頂いて、助かる手立てをこうやって教えて頂くのでございますから、その手立てをね、本当に、信じて行じて初めて、教祖金光大神のご信心、その教祖金光大神の、まっ言うなら、あー、天地書附がここに集まったり、または藤井、あの古川の、末為神様との関係がでけたり、またはさいじん、藤井家の御霊様の縁がここにでけたり、しかも次々、藤井家からはお礼参拝があるような、働きというものがです、ね、私と教祖金光大神のつながりから、こう、でけていくのじゃないでしょうかね、ええ。
いよいよもって、まっ金光大神が、ね、合楽の、言うなら信奉者の一人一人の上に、大恩人として頂けれるような、皆さん信心を頂いて頂きたい。教祖金光大神あって、神様は世に出られたが、教祖金光大神あって、まっ熊谷さんじゃないけれども、普通から言うたら、不平不足も愚痴も出そうな、言うならば感じです。ね、けれども、そんな段ではない、有り難い有り難いという、もったいない生活がでけられるということを頂いて初めて、金光大神は熊谷さだよの大恩人ということになるのじゃないですか。ね、その教えを、また、教えてくださった親先生は、熊谷さだよの大恩人という、もう合楽あっての私ということになるのじゃないでしょうか。ね、合楽あっての私、私あっての合楽と、次には言えれる、神様からも言われるような、一つ、信心のお徳も受けて頂きたいと思うです、ね。
昨日は、高芝さんの50日の、霊祭がございました。御霊様をここへお移しもうし、そして、という式と、50日の帰幽祭でございましたが、もう本当に大変盛大な、以前の総代仲間の方達も全部ご参拝になって、えー、おりましたし、えー、まっ(???)も皆、それこそ威儀を正しての、まっ素晴らしい盛大なお祭りでした。他の霊、告別式から霊祭、みな若先生が祭主を務めましたから、私はまっ玉串を上げるだけでしたから、昨日初めて、なら、霊祭に私が、祭主で触れさせて頂いたら、本当になんか、こう、肌が触れ合うような実感、のお祭りでした。
お祭り、ご祈念を終らせて頂いて立とうと思う時に、今日は、あの、あーたの家内子供、孫たちまでいっぱいこうして集まっておるから、今日はこういうことをお話をしたいと思った途端にもう、感動が湧いて、もう、立ちようのないような、感じでございましたが。昨日、霊祭、50日祭にこんな話を聞いてもらいました。
昨日、朝の御祈念の後に、久留米の佐田さんがお届けになりました。ですから、昨日のお届けに「昨日の」と言われるから、昨日一昨日の朝、お夢を頂かれたのが、ボンゴという自動車がありますね、たくさん乗られる車が、あの車が、ここの境内に入ってきた。そしてそこから、降りてこられるのが、あの、高芝さんたちご一門であった。これはもう、特に高芝さん、もうあんな素晴らしいお顔を見たことがないというような素晴らしいお顔であった。まあなんとあんな素晴らしい着物、和服にきちっと(?)を締めて、えーあの、人だいたいお洒落さんでしたからね、まっそんな感じだったんじゃろうと思うんです。もう素晴らしいあの、表情で車から降りて、尺八を持って降りられた。次には琴を持って降りられる人がある。もう、次々と降りてこられる人が、皆それぞれに楽器を持って降りてこられる、教会の中に入っていかれる。はあ、だいたい明日が50日祭と聞いとったのに、もう前の日から、お見えておるじゃろうか、と思うお夢であったというお届けがございました。
皆さんどうです。そのお夢の話を聞いて。合楽ではね、こういう言うなら働きがいつも、お互いの上にあっておるんです。ね、信じ、信じまいと思っても信じずにはおられない働きがあっているんです。ね。言うなら、神様の願いでもあろう、御霊様のまた願いでもあろう、ね。言うならば、その、それぞれの個性というかね、楽器がそれぞれ違うように、けれどもその、一つの、本当に素晴らしいリズムを奏でるという、なら一つの大合奏ということになれば、一つの調子が合わなければならんでしょう。いかに琴と尺八が合うというても、ね、言うならば、調子が違っておったんでは、それももうダメになってしまいます、ね。
ですから、これからの、言うなら、高橋、4人の立派な息子達が、もうお父さんに増して、非常に魅力的な人たちばっかりです、息子さん達が。ね、その息子達がです、ね、信心によってその魅力がいよいよ、まっ発揮されるようになったら、有り難いだろう。それは、そんならば、一事が万事にです、ね、子供達の、言うなら合い方というものがです、ね、めいめいの楽器は違っても調子が合う、その調子を信心に求めるということから、いよいよ、高芝家、いわば、大繁盛も約束されることであろう、ね、何とも言えん、一つのリズムが出てくる。そのリズムに乗っての生活ということを、私は御霊が願っておるのであり、神様のまた願いでもあるというような、まあお話をしたことですけれども。
ね、私が頂いたというよりも、久留米の佐田さんが頂かれたというところに、こう、いよいよなんか実感としてですね、本当にそれが御霊の願いであろう、神様の願いであろう、実感せずにおられない感じがするでしょう皆さん。だからその、実感しただけではなくてです、それをほんにそうだろうと、ならどういう生き方になったら調子が合うかということを求めていくことは、めいめいの信心でしょうが、ね。
どんなに、もう、毎日毎日が有り難い、勿体ないという生活させてもらっとりますと、言うなら熊谷さんの場合であっても、ね、ご理念に基づく生き方というものがでけて初めて、そういう、心の調子も整うてくるし、有り難いということになってくるんです、ね。
私は本当にです、氏子からも、の恩人、神様から言われても、金光大神は恩人と言われるが、本当に金光大神が私どもの大恩人であると実感できるために、おかげを受けなきゃなりません、お徳を受けなきゃなりません。一事が万事に、言うならば、ね、一家が、ね、信心による、言うならご理念による調子が合わせて頂いて、喜び一家のおかげを頂かせてもらい、その喜びの輪が広がっていく、言うなら、金光大神が私一家の大恩人であると頂ける、ね。金光様のご信心を頂いておっても、神様は、ね、氏子からも神からも双方からの恩人と言われるけれども、これは神様からのは絶対ですけども、氏子から大恩人と言えれるような、信心を頂いておる、おかげを受けておるという人は、たくさんなないと思うんです。
ね、おかげ頂くけん、参るとは参りよるばってんといったようなことで、ね、一家の大恩人として、頂けれるためにはです、どうしても、ね、御教えの実験実証でなからにゃならんが、それをです、合楽の場合は、そうせずにはおられない、それを信じずにはおられない、という働きの中にあっての教えでしょうが。ね、ですから、それを行じない限りです、じゃ金光大神が私なら私一家の大恩人というふうには、頂けないと思うんです。そこのところが、頂けるところまでお互いの信心を進めたいですね、どうぞ。
入力者:大坪ふく代